ドラマチック長義~昔の人は細かいとこまで気にしない~

とうらぶの山姥切長義は実家に否定されて気の毒だね。

え、違うでしょ。徳美は山姥切長義ファンも歓迎してくれてるよ。

でも講演会で本作長義は山姥切ではないってバッサリ否定されたよ!


そんな会話を聞きつけたからには、ひとこと言わずにはいられない。
なぜなら……私は長義過激派だから!

 

皆さんこんにちは、5/11徳川美術館の長義講演会レポ&感想の後編になります。
前編&中編を読んでいない方はこのレポのスタンスも書いてあるので、是非先に読んでいただけると幸いです。

本作長義(以下58字)名刀物語~長義過激派が守り、伝えるもの~ - yuu_honba’s diary

長義の傑作~本作長義は超おもしろカッコイイぜ☆~ - yuu_honba’s diary

 


レジェメに記載ない原先生発言はオレンジ
レポ主の感想(心の声)はグレー
レポ主が強調したいところはブルーで記載します。

 

【本作長義名刀物語~山姥切長義~】
今まで2回に渡り本作長義講演会レポをお届けしましたが。一向に山姥切伝説まで辿りつかない!!昭和に入りようやく山姥切伝説が出てきます。

 

・「山姥切」の初出
 『新刀名作集』大阪刀剣会…昭和三年
 山姥切国広の説明に山姥切の由来が書かれている。
 「北条家の浪人石原くんが妊娠中の妻を連れて信州小諸を通行する時、妻が産気づいてあたふた。
  山中の家にいた老婆に妻を預けて薬を求めて帰ってきたら、老婆が生まれた赤子を食べていた。
  石原くんは激怒持っていた刀で老婆を斬った。この刀が山姥切と名付けられた。」
 新刀名作集に載っている大正九年にとった押形にも山姥切国広と表記されている。

 この山姥切国広の山姥切由来が近代に入りどこからポッと出てきたかは不明です。
 良くある刀剣売買時に高値で売れるよう箔付けの為に作られた話では?という説を聞いたことがありますが講演会ではどこから来た話なのかは語られていませんでした。
 うろ覚えですが、この山姥切の話は一体どこから来たのか?を講演後に質問された方がいて原先生もそれは分からないと回答していたと思います。

 この講演で重要なのは確かに「山姥切国広」と記載された大正九年の押形が昭和三年の資料に載っているという点でしょう。

 

 完全に現代人の感覚なんですが、この山姥切伝説聞く度に妊娠中の妻連れて山越えするなよ……と思います。

 

 またこの昭和三年時点では「長義とよく似たり 長義を写したるか」と、長義の写しの可能性があるという指摘のみされている。

 

・山姥切国広の伝来
 長尾顕長
 ↓
 北条家旧臣・石原甚左衛門
 ↓
 関ケ原合戦時に石原より井伊家家臣・渥美平八郎が譲り受ける
 ↓
 維新後、渥美家が困窮した為、滋賀県彦根曾祢の醤油屋北村へ質入れする
 ↓
 旧彦根藩士・三居氏がが質受けして所有する。
 大正九年『新刀名作集』編集前の調査時には三居家が所蔵。杉原祥造氏が押形を取る。

 原先生
 関ケ原で井伊家家臣の刀が折れちゃったので、石原くんが自分の持ってる山姥切国広を譲った。

 そんな気軽に貰えるの!?関ケ原行かなきゃ!

 

・山姥切国広の再発見
 佐藤貫一(寒山)著『寒山刀話』…昭和四十八年
 旧彦根藩士井伊伯爵家所蔵時に関東大震災で焼失したとの噂があった。
 そのため押形以外は無いと思っていた。以前出版した『国広大鑑』…昭和二十九年にも押形のみ掲載。

 しかし昭和三十五年に本間順治氏によって山姥切国広を再発見し井伊家伝来と聞き取り。

 原先生
 『新刀名作集』には井伊家・家臣所蔵と書かれているのに、それがいつの間にか井伊家所蔵になっている。井伊家所蔵は間違い。


 この講演聞くまで、山姥切国広は井伊家伝来だと思っていました……。
 中編の蔵帳もそうですが、やはり伝えて行く過程でどこかで間違いは出るのですね。

 

・佐藤貫一(寒山)篇『堀川国広とその弟子』…昭和三十七年
 における山姥切国広の作品解説より

 「本作長義と山姥切国広を比較すれば一見してこれはそれを狙った作である事が直感される。
 しかも単なる模作ではなく、千刃の動きとすすどしさは長義をさらに強調している。
 堀川打のものには正宗、志津を思わせるものがあるが、そこに至る一段階がこの長義へのねらいであり
 この作こそは彼の心枝を脱皮せしめる契機となっているのではなかろうか。
 この作こそは彼の一生涯中自らかえりみても最も記念すべきそして誇るべきものでもあろう。」
 (レジェメから要点のみ抜き出してまとめ)

 本作長義を絶賛し、山姥切国広を本作長義の写しとしつつも、山姥切国広の出来も絶賛。
 「国広の傑作」であるとも評価されている。

 ここまで号に関する言及は無いが、

 この刀は古来山姥切と称しているが号のいわれはあきらかでない。
 一説に山姥切の号は、元来この長義の刀に付けられた号で、信州戸隠山中で山姥なる化物を退治したためという。
 その写しであるから山姥切国広と呼びならしたという。」

 原先生
 ここでいきなり出てきちゃった。
 しかも場所が違う。小諸と戸隠は60kmも離れてる。60kmも山姥を追いかけたのか!?
 ただし本作長義の写しが山姥切国広である事は、専門家がその姿や年代・銘から鑑定してきたのでほぼ間違いない。

 本歌と写しを大絶賛ついでに勢い余って号も写したかも☆とか言っちゃったのかな?
 姿形を写したから名前も写したのかもね~みたいな。

 

・その後の学術見解
 本間順治・佐藤貫一監修『日本刀大鑑 新刀篇一』…昭和四十一年
 「山姥切の号は元来この長義の刀に付けられたもので、信州戸隠山中で山姥なる化物を退治したためといい、
  その写しであるから山姥切国広とよびならしたという。」

 号のいわれは不明としていたが、四年後に出された本間順治氏の著作では、一貫して山姥切の本家は本作長義と言い切る。
 信州戸隠伝説と共に、以後踏襲される。

 

 刀剣会編集『寒山刀剣講座 第一巻 京鍛冶篇』…昭和五十五年
 ほぼ同じ内容

 本間順治編著『昭和大名刀図譜』…昭和五十四年
 ほぼ同じ内容

 原先生
 コピペか?

 このコピペ祭りからの世間への広まりは現代でも良くありますね……。

 しかし後編の冒頭で紹介した、昭和三年時点では、山姥切国広が本作長義の写しの可能性があるという指摘のみ。

 

文化庁の見解
 昭和三十七年 山姥切国広が重要文化財に指定された。
 「備前長船長義の刀を写したものと伝えている。山姥切の号のいわれは不明である。」
 文化庁も昭和三十七年時の佐藤貫一(寒山)氏の見解を踏襲。

 

 昭和の刀剣界の大先生がそう発表したから、皆がそれを信じたということですね。
 しかも日本刀大鑑は当時の刀剣界のバイブルだそうです。
 こうやって昭和から山姥切長義の認識が広まったのはとても自然なことだと思いました。

 

・結論
 本作長義が山姥切の本歌と言われ始めたのは、昭和三十七年以降に出された本間順治・佐藤貫一氏の著作で言及されてから。
 本作長義を山姥切とする史料的根拠は全く存在しない。
 ゆえに
 山姥切は国広作の刀剣のみに付けられた号と断定される。


 原先生
 でもこれだけ山姥切長義が広まればそれもまた名前かな。新山姥切とか?

 わぁ!寛容!!
 正直この講演会が告知された時は、
 うちは本作長義くん呼びだから、皆も本作長義くんって呼んでね~位のこと言われるかと思ってたよ!ガハハハ!


以上で講演会のレポは終わりになります。

 

【おわりに】
今講演会では本作長義は一体いつから山姥切長義と呼ばれるようになったのか?を追究していくことが
本作長義が歩んできた歴史も一緒に辿ることにもなったのではないでしょうか。

 

遥か昔、南北朝時代に打たれた長義の刀は
安土桃山時代に後北条家から長尾顕長へ家臣の証として下賜
そして小田原征伐と足利を経て
江戸時代には尾張徳川家へ渡りました。
お殿様の宝物として数々の名刀・名品と共に大切に保管され
昭和(もしくは明治)に一般にも公開。長義の傑作として高く評価されました。
その後、写しである山姥切国広の再発見&大先生方の書籍により山姥切長義の認識が刀剣界に広がりました。
本作長義は元号をまた一つ越え令和の現在、重要文化財として徳川美術館で公開されています。

 

今講演会では、尾張徳川の記録に基づき本作長義≠山姥切であると結論付けましたが、
本作長義が山姥切長義としても愛されてきたことは何ら変わりありません。
また講師の原先生も最後の冗談からも分かるように、本作長義がこれからも山姥切長義と呼ばれることも否定をしておりません。

私としましては、要は本作長義は山姥切の名を背負える程の名刀であると自信を持って言えます。
これからも各々好きな形で長義を愛していって欲しいと思います。
(もちろん寛容だからと何でもかんでもやって迷惑をかけてはいけませんよ。)


非常に拙い文章でしたが、ここまで講演会編を3回に渡り読んでくれて本当にありがとうございました。

元気があれば懇親会編も後日上げます。

 

 

 

 

 

ここから下は私個人の本作長義(徳美)と山姥切長義(刀剣乱舞)に対しての思いになるのですが、長いし重いし自分で読み返して一体お前は長義の何なんだ?とかなり引いたので……
お付き合いいただける方のみ読んでください。
刀剣乱舞の話も沢山出ます(妄想・考察は無いです)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【思うこと】
私は本作長義(徳美)と、山姥切長義(刀剣乱舞)どちらも好きです。
色々と物議を醸した彼らに長義過激派として何を望むでしょうか……。

史実が一番なんだから、刀剣乱舞が史実を取り入れた方がいい?
いやいや、本作長義も山姥切とするべき?

そうではありません。私の一番の願いは、
本作長義(山姥切長義)が何十年何百年と残り続け沢山の人々に愛され語り継いでもらえることです。
ここでいう残り続けるというのは、勿論健全な状態で刀自体が残り続けるのが一番ではありますが、もし何らかの事象で現存しなくなっても、人々の記憶や記録でいつまでも残り続けることです。
(そんな中で本作長義は平成・令和の時代にファン自らによって山姥切伝説を剥ぎ取られていってしまった不憫な刀~なんて、悪趣味な語られ方したらね、まったくもって不本意なわけですよ!遺憾の意!!)


今まで何度も徳美に足を運んでおいてアレですが、別に徳美信者ではないです。
徳美が好きだから長義が好きなんじゃ無くて、長義が在る場所だから徳美が好きなんです。
(ぶっちゃけ、本作長義は山姥切では無いと記載された資料は無い。つまり無いという証拠は無いのだからそこは暈して曖昧にしておいてくれてもいいじゃ~ん。くらいにも思ってます。)

だけど本作長義が現存している以上徳美はうってつけの場所です。
定期的に展示してくれるから見に行ける。ライトなファンも歓迎してくれる。昨年の京のかたな展などのように他所にも貸し出ししてくれる。
本作長義には沢山の人に見てもらえる機会があります。
私の推しはとってもとっても恵まれていると思います。

本作長義は本歌山姥切ということもありちょっと特殊で、刀剣乱舞に実装&キャラメイクされて世に大きく広まるより以前から一定層の人達に非常に愛されてきた刀です。
ご実家も実装前から何度か展示に出してくれてグッズも少し作ってくれてました。

しかし長義が見たくて来館する人が爆発的に増えたのは刀剣乱舞実装後の今回の展示からなのは確かです。
(原先生も「これが世に言う実装ってやつ……?」と言っていました。)


おかげで素敵なグッズが沢山発売され。1時間超え待ちの行列。長義のためのスペシャルイベント開催。お洒落な創作カップケーキまで販売されました。
ここまで盛り上がったのは
とうらぶの山姥切長義がきっかけで本作長義にも興味を持ってくれた人達がいるからこそです。
山姥切長義が沢山の人を本作長義の元に呼んでくれました。
これからも山姥切長義は人々と本作長義の良き架け橋になって欲しいと願います。

なので私はそういった願いを込めて本作長義=山姥切長義とします。

長義が刀剣乱舞に実装された時、本当に嬉しかったんです。

 

私が嫌なのはとうらぶのキャラだけが好きな人は本作長義を見に来てはいけない
本作長義≠山姥切を受入れられない人は徳美に来てはいけない
と思われることです。
そんなことはない!
本作長義そのものが好き
とうらぶの山姥切長義が好き
元の刀もちょっと気になるかも
長義に山姥切ってて欲しい
どんな気持ちでもいいから来たいと思ったら是非長義に何度でも会いに来て欲しいです。
(来たくなければ来なくても全然OK。)

 

最後に徳美より配布されていた"とくびぶみそろいぶみ"の告知チラシ裏面の挨拶を紹介して終わりたいと思います。ここまで3回に渡り読んでくれて本当にありがとうございました。
徳川将軍家ゆかりの名刀展は6/2(日)まで。
本作長義の特別展示は6/16(日)までです。あと残り1ヶ月を切りましたが長義をよろしくお願いします。

長義に会いに来てくださいね。

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